エピソード
のちの陸軍大将で日露戦争 旅順攻略戦で知られる乃木希典は、幕末の青年時には騎兵隊の一員として第二次長州征伐に参加した長州藩士であった。明治8年、陸軍少佐であった乃木は小倉の歩兵第十四連隊の連隊長(心得)として赴任。2年後の明治10年に西南戦争という歴史の大河に巻き込まれることとなる。
2月15日鹿児島を発ち熊本へ進軍を開始した薩軍の報に、乃木は熊本城守備の命令を受ける。2月22日の薩軍の熊本城攻撃時には、征討軍二個旅団はまだ神戸から博多に到着したばかりであり、このとき先行した乃木の部隊が過酷な運命を辿ることになるのである。21日に一個大隊を率いて熊本城に向かった乃木隊は22日に高瀬に到着するが、熊本方面で白煙が上がっているのを認め、薩軍がすでに熊本城攻撃を開始したのを知る。ここまでの行軍で兵の疲労は激しく、比較的元気な兵60名余りを率いて植木へ先行した。夕刻には後続も徐々に追いつきはじめてはいたが、すでに闇は深くなっていた。
一方薩軍では「官軍、植木方面へ現る」の報で、五番大隊(池上四郎隊)の村田三介小隊と四番大隊(桐野利秋隊)の伊東直二小隊の計400名をすでに植木に向かわせていた。暗闇の中、乃木の部隊と村田隊が衝突。近代的で優秀な火器を持つ乃木隊は一時優勢であったが、追いついた薩軍の伊東隊が村田隊と合流し、白刃突撃の白兵戦を敢行する。薩軍の猛襲で後退を余儀なくされた乃木隊は、後方で隊伍を立て直すこととし、連隊旗手・河原林雄太少尉に連隊旗を捲かせて退却。しかし後方で部隊の集結が終わっても、河原林の姿がない。乱戦の中で河原林は戦死し、連隊旗が薩軍の手に渡ってしまったのである。そのいきさつについては諸説あるが、いずれにせよ乃木にとっては生涯における最大の痛恨事であり、その恥辱と自責の念は凄まじかったという。のちの旅順攻略戦で二人の息子を戦死させ、明治天皇大喪の日の自決へと至る背景には、この事件が深く影響していたのであろう。
薩軍一番大隊長・篠原国幹は現役の陸軍少将であったが、西郷の下野に従って中央を去った。私学校の最高幹部のひとりであり、西郷の右腕ともいうべき存在で、眼光は鋭く、寡黙であったが接する者はみな畏敬の念を抱いたという。
田原坂に劣らぬ激戦が展開された吉次峠の戦闘では、銀装の太刀を帯び、フランス式の燦然とした制服と黒羅紗の外套をまとっていた。ひるがえした外套の緋色の裏地は目にも鮮やかで、戦闘では常に陣頭に立って指揮する颯爽としたその英姿は、遠目からでも目立ったという。
対峙する官軍の中に、薩摩出身で近衛第一連隊の江田少佐がいた。江田はかつては篠原から親しく指導を受けており顔見知りであったが、運命の皮肉か、濃霧のなか前方に鮮やかな手際で指揮する篠原の姿を確認する。夕刻も迫り、友軍の劣勢を挽回するには篠原を倒して薩軍に動揺を与える以外にないと判断し、狙撃兵らに一斉射撃を命じたのである。 このとき篠原は42歳。薩軍随一の名将のあまりにも早い死は、その後の薩軍の運命を暗示しているかのようであった。