西南戦争とは
西郷隆盛
徳川幕府解体後、明治政府は廃藩置県や地租改正を進め、封建から近代国家への歩みを進めていった。しかし、旧藩閥の対立や政争、官僚の汚職・職権乱用事件 などを抱え、新政府内は決して安定したものではなかった。また、新政府の政策により特権や経済基盤を失った旧士族の不満が徐々に高まっていった時期でもある。
そのような状況のなか、明治6年に参議・近衛都督の職にあった陸軍大将・西郷隆盛が、いわゆる征韓論争で大久保利通や岩倉具視に破れ下野。西郷の後を追うように、桐野利秋・篠原国幹の両陸軍少将をはじめ宮内大丞、村田新八ら政府の中枢にいた鹿児島県出身の官僚・軍人約600人も大挙して辞職し帰郷した。これを境に、維新の原動力となった薩摩の藩閥は、西郷隆盛派と政府に残った大久保利通派に大きく分裂することとなる。
大久保利通
帰郷した桐野利秋・篠原国幹らを中心に士族中心体制が構築されつつあるなか、明治7年に私学校が開設される。藩政の骨格がそのまま私学校の組織に再編成され、役人の人事も中央に従わず、鹿児島はさしずめ独立王国の観を呈していた。明治維新を成し遂げた薩長土肥のなかでも、抜きんでた力を誇る薩摩藩の軍事力はそのまま健在であり、また反政府感情も極めて高かったことから、中央政府にしてみればいつ爆発してもおかしくない爆弾のようなものであった。
明治7年2月、江藤新平らによる「佐賀の乱」が起こった。明治9年の廃刀令や金禄公債証書発行条例などの公布でますます士族の不平が高まるなか、同年10月には熊本「神風連の乱」・福岡「秋月の乱」・山口「萩の乱」など、その思想的背景は必ずしも同じではなかったが、立て続けに士族の反乱が起こる。相次ぐ反乱にも関わらず沈黙を守っていた薩摩は、西郷の威望によりその爆発力を押さえ込んでいたのである。
鹿児島の処遇について、長州閥の木戸孝允は薩閥の代表である大久保の責任を厳しく追及。木戸の突き上げにより大久保は、腹心であり同じく鹿児島出身の大警視・川路利良らと善後策を図る。川路は12月に鹿児島出身の23名を密偵として鹿児島に潜入させ、状況の視察と私学校関係者の離間工作を指示。政府はこれに呼応して、鹿児島にあった陸軍省所管の武器弾薬を秘密裏に持ち出そうとする。
これを政府の露骨な挑発と受け取った急進派の私学校生徒は、桐野や篠原ら私学校幹部に無断で火薬庫を襲撃。さらに密偵の大量逮捕によって、真偽は不明ながらも私学校に対する弾圧の口実となった政府との対立は決定的となっていた。
予期せぬ火薬庫襲撃事件に西郷は「汝どま、弾薬に何の用があっちゅうとか!ないごて、追盗っせえ!(お前たちは弾薬に何の用があるのか!どうして盗んだのか!)と幹部を前に激怒したという。しかしながら、私学校幹部ほか挙兵決行の意志が高いのを知ると、ついに西郷も決意。ここに運命の振り子が大きく振られたのである。