穀斗カシ属の常緑高木
くすのき科常緑高木
まき科常緑高木
明治10年西南戦争で政府軍征討総督有栖川宮が督戦された地。現在は公園地。中世城跡でもある。
平安時代末の製鉄遺跡。ふいごの羽口等が発掘された。
縄文時代の石器製作所。安山岩の割石が確認されている。
江戸時代中期の詩人、伊形霊雨一族の墓。霊雨は木葉に生まれ、明和2(1765)年に藩校時習館に入学、教授もつとめたが、晩年地元に戻って余生を過ごした。編著には『霊雨山詩集』『民草婦利』がある。享年43歳(1787没)。木葉川の麓に葬られたが、鉄道開設の際に今の地に移された。
2通
10の寺に使われていた瓦。
9の西安寺に使われていた瓦。
大友義鎮が肥後に派遣した代官の一人、清田宗甫の供養塔。(宗甫は、天文22(1554)年まで山北21町分の大官職に任じられたことが文献資料に残る)
寛政4(1792)年に寄進された仁王像。盲目の人物が来世への願いを込めて寄進したと伝わる。当初は山北八幡宮の楼門にあったそう。
平安時代末から鎌倉時代初期の製鉄遺跡。炉が残っている珍しいもの。
奈良時代末期から平安時代に存続した寺跡。瓦葺の講堂、塔、金堂の礎石が確認されている。
鎌倉時代に建立された西安寺跡礎石群等遺構
鎌倉中期の五輪塔。五輪塔6基 凝灰岩製、板碑10基安山岩製、一字一石一基安山岩
明治10年西南西南戦争の政府軍戦死者を葬った墓地。399基の墓石がある。警視隊の墓石有り。
明治10年西南戦争の政府軍戦死者を葬った墓地。980基あり、現存する最大のもの。
明治10年西南戦争で政府軍が大繃帯所をおいた寺。山門が当時の形で残る。
明治10年西南戦争で政府軍が野戦砲台を置いた場所。